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心に小さな消えないともしびを。いつか会えるその日まで。

こんばんは。ロジエです。

私たちは、霊視鑑定や占い(カードや風水)をする一方で、ご相談者の方に、答えられないときもあります。また、それを叱られたり、または苦しさを私たちが答えないことを、私たちを通じて神仏を憎むと叫ぶ方もいらっしゃいます。

疑心暗鬼になり、神などいない。と言う方も居られますし、私たちのことを詐欺師だと言われる方もおられます。

では、私たちの所に最初から来るな。と言う場合もあります。来るべきではない。何故なら、何を言っても聞けない時は、納得できなくて「そんな話で騙されるか。見れないんだろう」しか言われません。

この方々は、とても後ろ向きな生き方をされています。私たちに怒りをぶつけても、悲しみは癒えないのです。私たちに癒しを求めても、神仏は…自分で立て。という促しをしてきます。何故なら。私たちは、個人は個人としてしか、生きることができないのです。

故人の代わりにもなれません。病気で苦しむ人の代わりにもなれません。泣きながら、前を向けなくて辛くて、説教なんか聞きたくないわ!と言いながら、私たちのような者の所へ、同じ質問をずっと繰り返し、答えを得られずに悩みます。

大昔から、人の悩みは似たようなものです。愛しいものとの別れ。不幸な境遇…

そのときに、先人はすでにその問題に取り組み、道標を書いて、先に死んでいきます。苦しみの中で、苦しみと共に。

我が子を亡くした方が、あの子を助けてと神仏に必死に祈ったのに、助からなかった。残酷な死に方をした。何故?私が悪いの?あの子は何も悪くない。

と言われました。元気にしているか天国にいるか。聞かれますが、そのような事はほとんど教えてもらえないのです。

運良く言葉を頂けても、その人に良いと判断されたのだろうと思う場合に少しだけ、悩む人に「愛してるよ私は大丈夫だから」「天国にいるよ」程度なのです。

それを聞いても、相談者は納得しません。何故助からなかった?何故助けなかった?と自他を責めるのです。

釈迦は例え話として、その事に興味深い説法をしています。

薬師のお話。薬師は、子供たちはいつか困難に立ち向かう時が来るだろう。と、毒消しの薬を置いて旅立ちます。そして旅先で死んだと知らせを送ります。子供たちは泣き叫び…指導者がいないため毒を食べてしまいます。しかし、父が残した薬を誰も怖がって飲もうとしません。でも、ある子供がお父さんのことを信じる、と薬を飲んで助かります。それを見た兄弟も薬を飲んで助かる…そこへ、お父さんが帰ってきて、私はお前たちにこれを教えるためにあえて姿を消した。と言うのです。いくら良いものだと教えても、信用しない。だからわたしの死を待ってこれを残し、あるとき思い出したなら、あなた方の役に立てたら良いが、と。

それは、釈迦が残した経典そのものの言葉たちの事でした。釈迦が入滅するまでに、泣き叫ぶ弟子のために。私が消えても、私はお前たちを見守っているよ、と。

頼るものがなくなっても、その方の残したもの、愛や思い出を、自分への薬や助けとして生きなさい、苦しまないように。と…

あなたが愛したその方や、その愛しい者は、あなたが苦しみ何もかもを憎み不幸になることを望むでしょうか?幸せを望むはずです。

私が救えなかったから恨んでいるはず、という方もおられますが、では逆の立場なら、あなたはその方を憎みますか?とお聞きします。

 このお話で重要なのは、泣いて泣いて涙も枯れて、ふと薬屋は戻ってくる。その言葉を思い出すということ。つまり、何となくでも、意味がわかるのです。

愛した存在に、恥じない生き方をしなさい。「私のために幸せになって。」彼らなら、そう言うでしょう?

あなたなら、愛した者に、おそらくそのように願うように。

挫けても歩けないと思っても、動かなくても。恥ない生き方を、心を選んで下さい。

それは、あなただけが成し得るものであり、神仏や誰かからああしろこうしろと決められてするものではないから、答えがないのです。

ただ、先人や古くある神々…おそらくご先祖様たちなのでしょう。そうやって生きる知恵を残してくださいました。苦しいときに。こうしなさい。と

あなたを愛してやまない、苦しまないでね、こうしたら良い。と。

霊界を見るのではない。あなた自身の生活や、また会えるその日まで、来たよ!と笑顔で会えるよう、努力して恥じぬ生き方を選んでください。

 不幸な中にも、小さな光を灯して、生きてください。あなたのその光が、また違う誰かにとっては美しい光だなぁと、救いになるのです。

ロジエ より

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